ねこよりまるい | 性虐待サバイバー

性虐待サバイバーの体験記と日常。虐待から10年、元気に生きています。似た経験をされた方、他のことで辛い方、そうでない方とも繋がりたい。できる活動や勉強を少しずつ。

ブログ名を変えました

ブログ名を変更しました。

 

分かりやすい名前が良いと思ってそのまんま「性虐待サバイバーの生き方」にしたのですが

 

ワードが強すぎて、毎日見ていたら疲れてしまいました (笑)

 

ここのところ虐待のことを思い出したり考えたりしすぎて気持ちが沈みがちになっていたこともありました。

 

反動でこれ以上ゆるいものはないくらい、ゆるい名前にしたくなりました。

 

そういえば最近、過去を振り返る以外にも

他の方々のお話やニュース記事を読むことが増えて、より当時の自分のことを思い出していました。

 

自分はもう過去を思い出しても大丈夫、と過信しているところがありました。そんなことはなかったです。あぶない。

 

過去の掘り出し作業をしたり、いろんな記事を読んだりして、気づかない間にエネルギーを消耗していたようです。

 

いつもこの話題の中に身を置くのもよくなかったです。

のめり込みやすいところがあるので、意識して距離を取りながらやっていこうと思います。

虐待、その後⑦ ~結婚、親との決別~

結婚式は私にとって
親との決別式でもありました。

本当は式をするのも気乗りしなかったのですが、親もそれでは納得しないだろうし後々小言を言われても面倒なので

どうせなら楽しむことにしました。


しかし打合せは苦痛でした。親というだけで感謝し大事にしなければならない空気になるからです。

私はあの2人のことを、当然のことながら親と思っていませんでした。

血のつながりはあるけれど、ただそれだけの人たち

親として何かを期待することもしないし、もう出来るだけ関わりたくありませんでした。

世間では性犯罪の加害者と被害者は遠ざけられるべき、と思ってもらえるのに、親というだけで関わらなくてはならないのが腑に落ちませんでした。


彼らはそんな私の気持ちは知らずに、依然として父親面、母親面をしていました。

そして「常識では子は親にこうするものだ」と、子としてあるべき態度を私に要求してきました。
私が実家に顔を出す頻度のことなどです。


結婚にあたっても彼らは色々と要求をしてきました。

そんな親に対して大きなストレスを感じていましたが

親から離れられる未来に希望を抱いて「結婚式が終わるまでの辛抱」と言い聞かせて準備をすすめました。

彼らを満足させるために式の演出でも彼らのことを立てました。

すべては穏便に実家からフェードアウトするためでした。

少し無理したところもありましたが、これだけ立てたら満足させられただろう、という達成感がありました。


親へのスタンスはこのような感じでしたが

大好きな人たちに喜んでもらいたい思いはありました。

私がここまでこれたのは周りの人のおかげなので、その感謝を伝えたいと思っていました。

母方の祖母
私に住む場所をくれた祖母
高校生の時、あの家から出られなかったらと思うとゾッとします。親を悪く言うと咎められましたが、祖母は私の日々の癒しでした。



あの親の元で一緒に励ましあった兄
人に言いにくい親の愚痴を言い合える戦友(笑)でした。大事な家族です。


支えてくれた友人たち
私が辛い時は心配してくれて、楽しい時は一緒に過ごしてくれて感謝しています。

式当日は、それぞれに感謝を伝えることが出来たと思います。

思い出に残る良い1日になりました。



こうして式が終わり、新しい生活が始まりました。







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虐待、その後⑥ ~夫の話~

うつになってしまった時に
手を差し伸べてくれる人が現れるかどうかでその後が大きく変わります。

それもタイミングやこちらの状況によっては差し伸べられた手をとれないかもしれません。


幸いにも私は今の夫と出会うことができました。

約5年間、精神的にひどい状態の私を見捨てずにいてくれました。

最初は保護者のような存在でした。


うつの私が安心できた点は

・どんな言動も否定しない
・感情的になることがない
・精神的に安定している
・自分もまじめに生きている

というところでした



小さい頃から親に「○○したい」と言っても
「ダメ」「わがまま」「贅沢」と否定しかされませんでしたが

夫は私がしたいことを最初から否定することなく、むしろ出来る限り叶えようとしてくれました。

おかげで「自分のしたいこと」を彼に対しては言えるようになっていきました。

自傷行動とか本当に駄目なことをしようとしたら怒ってくれました。


普通は誰かに愚痴を聞いてもらおうとすると、相手のキャパシティを考えてしまって全部は話せませんが

彼は私が吐く毒を全部聞いても平気そうにしていました。

よく「私のせいで○○にならないか」「私なんかがそばにいていいのか」と不安になりましたが、その都度安心させようとしてくれました。

私の世話(?)をしながら自分も大学の勉強や就活をしっかりしていて、見ていて安心できました。


私の親との接し方も色々と考えてくれました。


感謝してもしきれないです。

夫を見て、自分がもし元気になれたら、自分も人を支えられる人になりたいと思いました。


そんな支えてくれる人がいても私は何度も病みました。

結局のところ、うつも自分で向き合わないといけない問題です。

夫は病む度に話を聞いてくれました。

死ぬか生きるか迷いに迷った時も、長時間話を聞いてくれました。

そして、生きると決めて少しずつ動き始めた私と、夫婦として一緒に生きようと言ってくれました。


こうして私たちは結婚にむけて動き出すことになりました。


親からはいくつか条件が出されました。

私が働いてある程度お金を貯める、とかだったと思います。


私は地元の隣りの県で寮付きの派遣の仕事をはじめました。

県外に出たのは、親から離れた方が精神的に安定するからでした。

思った通り、地元にいる時より心が不安定にならないですみました。

製造業で、1日11時間立ちっぱなし、夜勤ありの仕事でした。

仕事はキツかったですが会社の食堂も安く使えて、社員さんも優しい人が多かったです。

なにより、結婚してさらに親から離れられると思うと頑張れました。


半年で目標額を貯めることができました。







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自立は、自分で立って歩くこと

#わたしの自立

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【自立 】

 他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと。ひとりだち。独立。 「親もとを離れて-する」(大辞林 第三版)

 

テーマに惹かれて書いてみることにしました。

 

 子どもの頃、早く自立したかった

 

子どもの頃は、親に頼らないと生きていけない状況が嫌で

早く自立したいと思っていました。

自分の好きな物を買いたい

好きなところに行きたい

早くそれができる大人になりたい

「お金を稼いで親に頼らずに生きていけるようになること」が「自立」と思っていました。

 

実家にいる時は自由がほとんどありませんでした。

放課後や土日は田んぼや畑仕事

自分の時間を自分の意志でつかえない

欲しいものは買ってもらえない

自分が持ちたくない物を持ったり着たくない服を着なければならない

自分の意志で行動をする習慣がありませんでした。

これは大きくなって自分で決めなければいけないことが増えた時に苦労することになりました。

 

 自分で決めること

 

今は「自分の生き方、行動を自分の責任で決めて生きること」

が「自立」だと思います。

 

誰かがこう言ったから

あの人がこうするから、私もこうする のではなく

 

自分で考えて、職業、ワークライフバランス、お金の使い方、夫婦のあり方など

色々なことを決めて生活していく。

それにはまず「自分がどうしたいか」が分からないと、決められないし

決めた後もなんだか楽しくありません。

 

大人になっても、旦那がこう言ったから、親にこう言われたから、こうすることにした、と行動の決定権を人に委ねている人はいます。

自分で納得しているのなら良いと思うのですが、中にはその後、決定権をゆだねた相手に対して不満を口にしている人もいます。

こういう人は自立しているとは言えないと思います。

 

自立と孤立

 

 

よく両親に「人に甘えてはいけない。自立しなさい」と言われました。

両親の考える自立は、「自分で稼ぐ力を身につけること」「人に頼らずに生きること」でした。

まだ結婚する前、私が今の夫に甘えている様子を見て「それではいけない」と思ったのでしょう。

私はその頃フルタイムで働く元気がなかったので、親の言葉に疲れていました。

しかし心療内科の先生は、「疲れた時に人に頼れないのは自立ではない、孤立です」と言ってくれて、この言葉に救われました。

疲れたら人に頼っていい、元気が出たらまた頑張ればいいんだと思えるようになりました。

実際に元気になってからは、人並みに働けるようになりました。

 

 自立

 

自立は、自分で立つ。人生のフィールドに自分の足で立つこと

そして自分の足で地面を踏みしめながら歩いていくこと

 

そのために、自分は何が好きか、何がしたいのかを知り

どう生きていくかを自分で選択する

 

やりたくないことをやらなけらばいけない時も

させられている感覚でするのではなく

自分で選んだ、という気持ちでやっていくこと

 

自分の人生を主体的に生きること、楽しむこと

人のせいにしないこと、責任をもつこと

 

「こう生きたい」という私の願望も入ってきましたが

これが私の考える「自立」です

 

 


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虐待、その後⑤ ~私の家と宗教(後)~

 再び休養の日々 

 

どっちにしても迷惑をかけるならと生きることにした私は

再び完全休養を決め込み、ただ息をするだけの生活を続けました。

当初は階段を上ることができないくらい衰弱していて、這って上がっていました。

少し動くだけで息が切れました。

身体機能がどこか悪いわけではないのに、体が動かなくなるのって不思議だなと思います。

基本的に動けなくてひたすら寝ていました。

 

動けるようになってから、少し前に知り合いに教えてもらった心療内科の先生にかかりました。

 

ここでは私の生い立ちから今までのすべての出来事を話すことになりました。

自分の心の内を言葉にするのが苦手で、話せるまでに結構な回数がかかりました。

虐待のことを全部話すのは抵抗があったし、

話すと涙が出たり不安定になったりするので一区切り話し終わるまでに相当な時間と労力を要しました。


診察後はグッタリと疲れて、もう通うの嫌だ…と思うこともありました。

 

先生に対しても「この人こんな話聞きたくないんじゃないかな、忙しくて疲れてないかな、迷惑じゃないかな」と考えたりしてしまいました。


それでも先生は毎回たっぷり時間をとって、じっくり聞いてくれたので、

虐待のこと、親のこと、宗教のこと、少しずつですが、すべて話すことができました。

それでちょっとずつ気持ちを持ち直してきました。

 

親の宗教活動

 

そのあと待っていたのは両親との闘いでした。

両親は、宗教活動最優先の生活を送っていました。彼らは家族よりも何よりも宗教が一番大事な人たちでした。

家のこともせずに、田んぼや村の奉仕作業などはすべて激務な兄に任せて

朝から晩まで宗教活動のことで頭がいっぱいでした。


そのことで兄が不満を口にすると

「何かを犠牲にしなくてはいけないんだ(キリッ)」とか言っていました。

なに良い感じな風に言ってるの (笑)


両親は必死で私を団体に引き戻そうとしました。

やめたら私の運命は終わりだと思っていたからです。

団体では人をお誘いするのはすばらしい善だと言われていたので、

彼らも良かれと思って、こちらの気持ちを一切無視して誘ってきました。

やめてと言っても聞く耳をもちませんでした。

信仰や信条というデリケートな部分に、土足で踏み込んできて好き勝手言ってくる彼らの言葉が苦痛でした。

 

2年ほど経つ頃、私が言う事を聞かないと悟ると

兄に「あいつは迷っていった、もうあいつと関わるな」と

私との関わりを絶つように求めてきたそうです。


 

人生をやりなおす

 

私は、どうせ生きるなら、一度死んだつもりで生きようと思いました。

もう誰の言いなりにもならない、好きに生きよう。

親が決めた望ましい生き方、地元に残った安定的な生き方、

そんな敷かれたレール全部とっぱらって

親の刷り込みに囚われていた過去の自分とも決別して、

これまでの人生ぜんぶ捨ててなかったことにして、好きな所で好きに生きてやる。

その結果がどうなったっていい。

体調はまだ本調子ではありませんでしたが

失うものがないからか怖いものがなく

吹っ切れたというか、少し投げやりというか、開き直った気持ちで

新しい人生が始まったような感覚でした。

 

 


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虐待、その後④ ~私の家と宗教(前)~

【本当に死のうと思った時の話というか記録です】

きっかけは所属していた宗教団体のことが信じられなくなったことでした。宗教のことは書こうか迷いましたが、(多分)今回だけ書くことにしました。今はもう元気なので、思い出せる範囲でフランクな気持ちで書いています。虐待のことは書いていて重い気持ちになりますが、これは過去に元気がなかっただけの話なので、今は思い出しても辛くはなりません。「この人こんなことあったんだ」って軽い感覚で読んでください。

 

宗教と私

 

 

私は、25歳までとある仏教系の宗教団体にどっぷりはまっていました。

というのも、両親がその団体で出会って結婚したので、物心ついた時からその団体の活動がいつも日常の中にありました。

子どもの頃から宗教の英才教育を受け、まじめに「先生のお話」を聞いて育ちました。

私は、団体の周りの大人たちに可愛がられ、将来を期待されていました。

私自身も、先生のお話は素晴らしい教えだと思っていました。

団体の中には、私の中でひそかに「お母さんのような存在」や「お父さんのような存在」と思っていた人もいました。

その人たちは、実際の両親よりも温かくて、私のことを大事に思ってくれていると感じました。

そこでは同世代のたくさんの友達もできました。

みんなのことが大好きで、月に一回みんなに会えるのが楽しみでした。

そこは生まれた時から過ごした場所で

私を可愛がってくれる人、好きでいてくれる人、褒めてくれる人が沢山いる、私の大切な居場所でした。

活動は大変でしたが、精神的に辛くなった時も団体が心の拠り所でした。

私は、通信制の大学を卒業後、この宗教団体の職員になりました。親も宗教活動に熱心だったので許してくれました。

 

 信じられなくなる

 

しかし、職員として中に入ってみると組織の実態は、言っていることとやっていることが矛盾していました。一つおかしいと思うとあれもこれもおかしいと目について

詳しくは書きませんが、ほどなくして「なんだこれは、ここにいてもダメだ」と強烈に思ってしまいました。夢から覚めたように、団体のことがまったく信じられなくなりました。

 

困ったことに、この団体は「先生が信じられなくなった」「違う先生の話を聞く」ということが絶対に許されませんでした。そんなことを言おうものなら要注意人物だと警戒されて、怒りの感情を向けられます。それまでどんなに仲良くしていた人でも、今まで通りの関係ではいられなくなってしまいます。

実際、その時信頼していた子に「この団体のことが信じられなくなって辛い」と打ち明けたところ「そんなさきは受け入れられない」と言われました。

 

生まれたころから聞いてきた、私の人生の指針になっていたお話が信じられなくなってしまいました。

また、この団体を去ることは、大切な人間関係のほぼすべてを失うということでした。

もう「おわった」と思いました。

でも信じられないまま居続けることもできませんでした。

親よりも親のように慕っていた、可愛がってくれた人たちに「あの子は迷っていった」と失望される未来が見えて、それが本当に悲しくて

「あ…生きていけない」と思いました。

 

自殺計画

 

今回こそ、もう生きるのは無理だと思いました。

起きているときはずっとスマホで死に方を調べていました。

最初に調べたのは首を吊る用の縄でした。

色んな死に方や必要な物を調べました。

そして「醜くなるのも苦しいのも嫌だしやっぱり練炭かしら」と見定めました。

ネット通販で練炭と七輪の価格を調べて、〇月頃、車で○○に行ってこれを使ってこういう手順で死のう…と計画を立てました。

計画を立て終わると「これでいつでも死ねる」と、気持ちが楽になりました。

 

迷惑をかけたくない

 

次に、自分が死んだ後に親族や警察やらがとるであろう行動を想像しました。

私は死んだ後の色々な処理に際して、人に迷惑をかけるのがどうしても嫌でした。

そこで「迷惑をかけない死に方」を延々と調べました。が、

結論は「そんなものない」でした。

首をつっても、電車に飛び込んでも、飛び降りても、練炭でも、

どんな死に方をしてもどうしても人にけっこうな迷惑をかけることになります。

薬ならと思ったけれど薬の入手方法が分からないしお金がありません。

ここまできて、ものすごく悩みました。

死んだ後の迷惑まで考えるなんておかしい話ですが、たとえ死んだ後であっても、人から「迷惑な奴だ」と思われるのが耐えられなかったようです。

死んでも迷惑、生きてても迷惑、死んでも迷惑、生きてても迷惑…

どうしよう、どうしよう…と結構な期間真剣に悩みました。

そして、

死んでも生きても、どっちにしても迷惑をかけるなら………

死んだつもりでもう少し生きてみるか…というところに落ち着いたのです。

 


後半につづきます

 

 

 

 


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虐待、その後③ ~父の謝罪と母による二次被害~

【大学生③】

精神的にも経済的にも大学に通うのが難しくなっていました。調べた結果、希望の免許が通信制の大学で取れることを知った私は、そこに編入しようと考えました。

最初、両親には反対されました。

 

 

そのとき

「なんでこんなこと(鬱)になったかって、あんた(父親)のせいだろ!」

ってこんな言い方じゃないけれど、両親の前で言いました。絶句していました。

性虐待と鬱が結びついているとは考えていなかったようです。

 

その後の反応はそれぞれでした。

 

父は少なからず罪悪感を感じているようでした。

しばらくして父が手紙を書いてきました。もらったその場で私が読むのを待っていました。

父からの手紙をもらって、正直気持ち悪かったのと、心が少し救われたのと半々でした。

内容はほとんど忘れましたが、自分がしてきたことを謝りたいと書いてありました。

 

私は「いくらあなたらが想像しても、私がどんなに辛かったかは分からないと思う」と、どもりながらやっとやっと言いました。

父と一対一の会話はものすごく久しぶりだった気がします。

この時父は、何かの思いが自分の中で高まったのか、二三言葉を発した後「愛しているんだーー!!」と私に抱き着いてきました。

恐怖でした。

私は、ギャーーーーー!!!と両手でつっぱってガードしました。

どんな変質者よりも断とつで一番怖くて気持ち悪かったです。触れられたところから全身をゴキブリが這うみたいにゾワゾワしました。

 

 

大学中退と編入に対して、母はかなり反対していました。

とにかくレールの上を歩かせたがるので、私がどんな状態でもそこから外れることは許さない、という感じでした。

そして私が鬱になったことに対して

「鬱なんて気の持ちようだ」「怠けている」「軟弱だ、甘えている」という感じで

理解はゼロどころか、すごく侮蔑されていました。(あんまり私の状態が悪かったので、のちに少しずつ態度は軟化します)

 

父の行為の話題になると、言われることは決まっていました。

「男はそういうものだ」

「もう終わったこと、いつまでも昔のことを言うのはやめなさい」

「忘れた方が楽になるよ」

「親を悪く言うのはよくない」

 

…( ゚Д゚)ハァァ? 

 

忘れようと思って忘れられるもんじゃないよ。それができたら苦労しないよ。悪く言われるようなことしてきたのはどっち。親を嫌いたい子どもなんていない、好きでいれるならいたかったよ。「お父さんと仲いいよー」とか言ってるとこはそれはお父さんがいい人なんだよ。

セカンドレイプだ。

 

毎回言われることは決まっているのに、

母親に傷を癒してもらいたい思いがなかなか捨てきれなくて、

懲りずに母に弱音を吐いて、

そして傷ついて言わなきゃよかったと後悔していました。

「この人に母親らしい言動を求めるのは間違いだ」と諦めがつくまで、何年もそんなことを繰り返していました。

親に対する期待を捨てるのはとても難しかったです。

 

「性暴行は魂の殺害」と言うのを聞きました。確かに最中、心が死んでいく感覚がありました。

母の元へは自ら傷つきに行っていたようなものですが

父につけられた傷口を母の言動によって繰り返しえぐられているような感覚でした。

振り返ってみると、虐待後に私が病んでいった一番の原因がこれだと思います。

 この時もし「悲しかったね、護ってあげられなくてごめんね」って寄り添ってもらっていたら、と思います。

えぐるのではなく絆創膏を貼ってもらいたかった。

 

その後なんとか大学中退と通信制大学編入を認めてもらいました。

両親としても四年大学を出て教員免許が取れるならいいか、という感じでした。 

 

同じ頃(じゃないかもしれない)

時々元気がある時に「死ぬ前に人に会いに行こう」と思い立って、会いたいなと思う人のところに遊びに行っていました。

大学のスクーリングで東京に行く時には、なるべく人に会おうとしました。

(元気の基準がおかしい。基本的に死にたかったんです。)

 その時、少しだけど事情を聞いてもらって「死ぬのはだめ、ぜったい」と止めてくれた人がいました。それでじゃあ今はやめておこうかなと思えました。

死にたいなと思った時、いつもという訳ではなかったけれど、連絡できる人、会ってくれる人、止めてくれる人がいて

そういう人のおかげで今があります。本当に感謝しています。

 

 

 

 


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