虐待、その後③ ~父の謝罪と母による二次被害~
【大学生③】
精神的にも経済的にも大学に通うのが難しくなっていました。調べた結果、希望の免許が通信制の大学で取れることを知った私は、そこに編入しようと考えました。
最初、両親には反対されました。
そのとき
「なんでこんなこと(鬱)になったかって、あんた(父親)のせいだろ!」
ってこんな言い方じゃないけれど、両親の前で言いました。絶句していました。
性虐待と鬱が結びついているとは考えていなかったようです。
その後の反応はそれぞれでした。
父は少なからず罪悪感を感じているようでした。
しばらくして父が手紙を書いてきました。もらったその場で私が読むのを待っていました。
父からの手紙をもらって、正直気持ち悪かったのと、心が少し救われたのと半々でした。
内容はほとんど忘れましたが、自分がしてきたことを謝りたいと書いてありました。
私は「いくらあなたらが想像しても、私がどんなに辛かったかは分からないと思う」と、どもりながらやっとやっと言いました。
父と一対一の会話はものすごく久しぶりだった気がします。
この時父は、何かの思いが自分の中で高まったのか、二三言葉を発した後「愛しているんだーー!!」と私に抱き着いてきました。
恐怖でした。
私は、ギャーーーーー!!!と両手でつっぱってガードしました。
どんな変質者よりも断とつで一番怖くて気持ち悪かったです。触れられたところから全身をゴキブリが這うみたいにゾワゾワしました。
大学中退と編入に対して、母はかなり反対していました。
とにかくレールの上を歩かせたがるので、私がどんな状態でもそこから外れることは許さない、という感じでした。
そして私が鬱になったことに対して
「鬱なんて気の持ちようだ」「怠けている」「軟弱だ、甘えている」という感じで
理解はゼロどころか、すごく侮蔑されていました。(あんまり私の状態が悪かったので、のちに少しずつ態度は軟化します)
父の行為の話題になると、言われることは決まっていました。
「男はそういうものだ」
「もう終わったこと、いつまでも昔のことを言うのはやめなさい」
「忘れた方が楽になるよ」
「親を悪く言うのはよくない」
…( ゚Д゚)ハァァ?
忘れようと思って忘れられるもんじゃないよ。それができたら苦労しないよ。悪く言われるようなことしてきたのはどっち。親を嫌いたい子どもなんていない、好きでいれるならいたかったよ。「お父さんと仲いいよー」とか言ってるとこはそれはお父さんがいい人なんだよ。
…セカンドレイプだ。
毎回言われることは決まっているのに、
母親に傷を癒してもらいたい思いがなかなか捨てきれなくて、
懲りずに母に弱音を吐いて、
そして傷ついて言わなきゃよかったと後悔していました。
「この人に母親らしい言動を求めるのは間違いだ」と諦めがつくまで、何年もそんなことを繰り返していました。
親に対する期待を捨てるのはとても難しかったです。
「性暴行は魂の殺害」と言うのを聞きました。確かに最中、心が死んでいく感覚がありました。
母の元へは自ら傷つきに行っていたようなものですが
父につけられた傷口を母の言動によって繰り返しえぐられているような感覚でした。
振り返ってみると、虐待後に私が病んでいった一番の原因がこれだと思います。
この時もし「悲しかったね、護ってあげられなくてごめんね」って寄り添ってもらっていたら、と思います。
えぐるのではなく絆創膏を貼ってもらいたかった。
その後なんとか大学中退と通信制大学編入を認めてもらいました。
両親としても四年大学を出て教員免許が取れるならいいか、という感じでした。
同じ頃(じゃないかもしれない)
時々元気がある時に「死ぬ前に人に会いに行こう」と思い立って、会いたいなと思う人のところに遊びに行っていました。
大学のスクーリングで東京に行く時には、なるべく人に会おうとしました。
(元気の基準がおかしい。基本的に死にたかったんです。)
その時、少しだけど事情を聞いてもらって「死ぬのはだめ、ぜったい」と止めてくれた人がいました。それでじゃあ今はやめておこうかなと思えました。
死にたいなと思った時、いつもという訳ではなかったけれど、連絡できる人、会ってくれる人、止めてくれる人がいて
そういう人のおかげで今があります。本当に感謝しています。